他人に好きな音楽を薦めることは難しいですね。

King Gnuにハマり続けています。

昨日からのお気に入りは、「Don't Stop the Clocks」のアコースティックバージョン。

井口さんの優しい歌い方が、素敵過ぎます。

その声を聴いているだけで、幸せな気持ちになれます。


昨日は一日中、隙あれば「Don't Stop the Clocks」を聴き続けていて、思わず夫にも薦めてみたくなったんです。

幸せな気持ちを共有できたらなあと。。

そして、結果、惨敗しました。

「ふうん。歌詞は?・・・まあ、よくある歌詞だよね。」

だそうです。


わかっています。彼に悪気はないんです。

でも、よくある歌詞じゃない歌なんて、そうそうないですよね。

大事なのは、そこじゃない!って思いますよね。


他人に好きな音楽を薦めることは、難しいんです。

わかっていたつもりでしたが、悲しくはなりました。


夫は「歌は歌詞が大事」という意見で、歌詞がいいと思って好きになるらしいです。

私は歌は歌詞も大事ですが、歌詞が先ではないです。

歌詞より先に音楽が入ってきます。

これは一般的に、意見が別れるんでしょうか。

考え方の違いと言ってしまえば、それまでなんでしょう。


でも言葉のない音楽もあります。

夫に聞いてみたところ、

「クラシックも洋楽も言いたいことがわからないから、興味を持てない。」

だそうです。

「クラシックは技術を自慢したいのかなと思っちゃう。」

とも言っていました。

ここまで来ると、私は絶句してしまいました。

まさかそんなにも、考え方に隔たりがあるなんて。

「そんなことは、断じてない。言葉で言えることなんて一部しかない。言葉で言えない感情を表現するのが音楽じゃない?」

と言ってみました。

夫はやはり、わからないそうです。


私はピアノを少し弾きますが、言葉を介さずに感情表現ができるところが、私が下手なりに今でもピアノを弾きたくなる大きな理由の一つだと思っています。

私にとって、一番の感情表現手段は、間違いなく「言葉」です。

と同時に、「言葉」の無力さ、不自由さを痛感し、ピアノを弾くと少し救われるんです。


たぶん夫と私は「表現すること」の理解がずれているんです。

私の理解は、音楽でも文章でもアートでも、何か表現したい物を作品として作り上げ、完成したらボールを投げるように手から離すイメージなんです。そしてそのボールを鑑賞者が受け取り、好きなように鑑賞する。

「作者が何を言いたかったのか」を聞き返すのはナンセンスです。

作者は作品に全てを込めているのだから、それを説明し直したら、作品が台無しです。

「表現すること」は、「伝達すること」とは違うんです。

ありふれた手垢のついた言葉も、作品として完成した時に、光ることができればいい。


他人に好きな音楽を薦めることは、本当に難しいですね。

好きかどうかに理由はないですから。

音楽を聴くことは、食べることに少し似てると思うんです。

本能のまま、摂取する感じ。

美味しい食べ物を食べて幸せになるように、好きな音楽を聴いて幸せになる。

美味しい、不味いは人それぞれ。

音楽の好き、嫌いも人それぞれ。


夫と音楽の幸せを共有できる日は来るんでしょうか。。


King Gnuにハマりました。そして今の気持ちを書いたら、歌のようになりました。

窓から差し込んだ陽の光で、空気中に舞う無数の塵が照らし出される。

正体は埃だから、決して綺麗なものじゃないけど、ぼんやりと見惚れてしまう。

授業の終わった夕方の教室の片隅で、そんな光景を見ていたような気がする。

 

何か書きたいなと思う時、それはまだ言葉にはなっていない。

ただの感情の揺らぎ。

それは、あの光景に少し似てる。

空気中に舞う無数の塵のように、無数の感情が浮かび上がって漂って、消えてしまう。

言葉にはならないまま。

だから自分が何を思ったのか、何を感じたのか、わからないまま、忘れていく。

焦燥感はある。

だから言葉にしたい。

言葉にすれば、理解できるから。

でも言葉への変換は、大体、うまくいかない。

言葉にした瞬間に偽物のように感じる。

言葉にして、否定して、また言葉にしての繰り返し。

 

振り返れば、迷ってばかり。

子供の頃から。

正しいと思うことへの恐怖。

今、正しくても、時が過ぎれば変わってしまうかもしれない。

だから正しさを選べない。

 

そんな自分を肯定するために、いつからか自分に言い聞かせてきた。

『迷うことを諦めない。』

 

否定を恐れて黙るのはやめよう。

何度、否定してもいい。言葉を紡ぎ続けよう。

 

空気中に舞う無数の塵のように、ゆらめく無数の感情を。

ただ言葉にして繋ぎ止めたい。

 

 

角野隼斗ピアノリサイタル 2020.12.13 streaming配信 レビュー

ハーメルンの笛吹き男』

 

2020年12月13日に行われた角野隼斗さんのピアノリサイタル(streaming配信)について、レビューします。

 

当初の私の予定では、streaming公演が20時開始だったため、家事等を考えるとLIVEで観るのはなかなかに難しく、後日、アーカイブで一人でじっくり観ればいいと考えていました。

ですが当日の開始時間が近付くとそわそわしてしまい、本当にほんの少しだけ、LIVEの様子をほんのちょっと覗いてみるだけのつもりで、20時にスマホの画面を開きました。

そして、、戻って来られなくなりました(笑)

 

スマホの小さい画面から流れているとは思えない、圧倒的な引力を持った音と映像。

キラキラと光るような高音の音の粒。かと思えばお腹の底に響くような低音。

画面から伝わる角野さんの緊張感と高揚感。

自分はいつものリビングにいるはずなのに、意識がサントリーホールに飛んで行ってしまうような、そんな感覚が確かにありました。

結局、開始からアンコール終了までの約1時間半、子供と夫の存在を完全に忘れて、スマホに釘付けになっておりました。

 

最初から最後までずっと鳥肌が立つほど凄い演奏だったのですが、特に凄かったのが、ハンガリー狂詩曲 第2番のカデンツァです。

途中で「どこへ行ってしまうのだろう」と怖れを感じるほど、未知の音楽の宇宙が拡がっていました。角野さんはずっと笑顔を浮かべていらっしゃって、それがとても妖しく美しく、自分は未知の世界に恐怖を感じたはずなのに、気が付くとその音楽の宇宙に惹き寄せられて、どこまでもついて行きたいと願っている、そんな不思議な体験でした。

 

後で考えて、思い出したのが、「ハーメルンの笛吹き男」のお話です。

美しい笛の音に誘われて、男について行ってしまった子供たち。

初めてお話を聞いた時は、「男について行った子供たちは、どこへ行ってしまったんだろう」と子供心にとても怖かったのを覚えています。

 

でももしかしたら、この時の私と近い気持ちだったかもしれません。

未知の世界へ誘う音楽。

少しの恐怖と、それを遥かに凌駕する高揚感と幸福感。

 

 

夢から覚めて、私は日常に帰ってきてしまいましたが、私は私の知らない世界が、確かにそこにあることを知ってしまいました。

そして必ずまた、再びその世界に触れたいと、願って止みません。

 

角野さん、最高の体験をありがとうございました。

 

私と同じように、角野さんのピアノで未知の世界へ誘われる人が、世界中に量産されていくことを願っています。